台湾を開拓したのは海賊!台湾400年の歴史☆
こんにちは。月曜日担当のあやみんです☆
最近、雲林県では数か月前から、この広告をよく見かけます。↓
道路を走っていても、この通り!
開台四百年!!!
へぇ~。今年で台湾が出来て400年って事ですか。でも、何をもって400年としているのでしょうか?だって、その前にも台湾に人は住んでましたから~。
で、この広告の絵の男の人は誰?色々気になったので調べてみました☆
400年前、最初に開拓された場所はここ!
時は大海賊時代、1621年に海賊の顏思齊は、28人の仲間を率いて雲林県に上陸。その後、台湾で最初の村を開拓しました。
驚く事に、雲林県の水林こそが台湾で最初に出来た村なんです!
※圧=村
台湾を開拓した顏思齊ってどんな人?
台湾外記によると、顏思齊は福建省出身の武術に長けた海賊商人。中国から日本の長崎に移り、裕福な暮らしをしていたそう。その頃の長崎には中国の商人も沢山住んでいた(又は行き来していた)とか。沢山という表現が曖昧でごめんなさい。はっきりした数字は調べられませんでした。(;'∀')
しかし、顏思齊らが、江戸幕府に対し反乱を起こそうとした事が明るみになったことで、台湾に逃げたのが台湾開拓のきっかけになったそうです。
日本と外国が関わった歴史が興味深い☆
台湾の国民的英雄に、オランダ軍を討ち払った鄭 成功(てい せいこう)という人物がいます。
私は、台湾に来るまで彼について全く知らなかったのですが、彼の母親が日本人なんですよ!え~!って思いません?
なんで?どういう訳で?どうやってあの時代に日本人と台湾人が出会って結婚したの?と不思議に思っていたのですが、調べてみると、鄭成功の父親は、顏思齊と共に台湾に上陸した1人だったんです。なので、彼もまた日本に住んでいた(又は行き来していた)って事ですよね。彼の父親について調べてみたところ、↓
鄭 芝龍(てい しりゅう、拼音:Zheng Zhī-lóng、Nicholas Iquan、チェン チーロン、1604年4月16日(万暦32年3月18日) - 1661年11月24日(順治18年10月3日))は、中国明朝末期に中国南部および日本などで活躍した貿易商、海賊、官員である。
彼は閩南語、南京官話、日本語、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語を話し、剣道を得意とし、スパニッシュ・ギターも弾けたという[要出典]。
子に鄭成功(国姓爺)と田川七左衛門の2人の息子がいる。
ウィキペディアにサラッと書いてあるだけですが、驚きの連続です。
まず、海賊で官員?私の中で海賊って悪のイメージしかなかったんですが…。色々な顔を持ち合わせていた人だったという事でしょうか?
あと、6か国語を話し、剣道を得意とし、スパニッシュギターまで弾けちゃうとか!www アニメに出てきそうな人物像。完璧すぎ。(笑)
そして、鄭成功の実の弟の名前がモロ日本人。ハーフだから、中国語名と日本名2つあったという事ですよね。で、兄は台湾と中国に拠点を置いた為に中国名を名乗り、弟は長崎で商人をしていたので日本名を名乗っていたのでしょうね。面白いですね☆
こないだ偶々youtubeのオススメ動画に美輪明宏さんの動画が出てきたんですよ。若い頃、超絶イケメンだったあの美輪さん☆
で、その動画で長崎生まれの美輪さんが、長崎には400年の国際都市の歴史がある。オランダ、ポルトガル、スペイン、イギリス、中国人、韓国人、朝鮮人と色んな人たちが雑居で住んでいたとおっしゃっていました。美輪明宏 RED Chairで検索☆
そんな環境の中で、彼ら海賊商人も沢山の言語を学んでいったのでしょう。長崎では、色々な言語が飛び交っていたんでしょうね。
最後に
10月28日から雲林県北港の砂糖工場跡で開催されている「開台四百年1621-大航海時代顏思齊」展は今週12月26日まで。週末のみ。
残念ながら、私は見に行く時間がないのですが、この会場で展示されている5つはこちら↓。
①顏思齊が台湾に来る前の台湾の様子。漢民族と原住民が物々交換していた。
②顏思齊が直面する世界。彼の歴史。
③顏思齊の時代の交易都市。 当時の東アジアの海域は非常に繁栄していた。
④顏思齊の貿易品。 原住民による物々交換を通貨に変更。 漢民族が故郷からさまざまな偶像や肖像画を持ち込んだ。
⑤ヨーロッパのグラム船の展示。 王朝と元王朝から明清王朝に至るまで、木製の帆船が海外貿易に使用されていた。
興味深いですね。見に行きたかったな~。(´;ω;`)ウゥゥ
1621年に台湾が開拓されるようになってから400年。勇敢で冒険的な海賊の精神が、常に変化していく台湾の源になっているのかもしれませんね。
読んでいただきありがとうございました。😊